【ヤッサープロジェクト座談会】2024年を振り返って(後編)

再びメンバーが集まり、ちゃべちゃべサロンを通じて地域の声を拾い上げながら、日々変わりゆく珠洲の姿を記録する活動を少しずつ進めていったヤッサープロジェクト。

やがて活動は軌道に乗り始め、8月には潮騒レストランが再開。復旧から復興へと、フェーズが着実に移り変わっていきました。

しかし、その矢先の9月21日、奥能登豪雨が発生。特に外浦の大谷地区では甚大な被害がもたらされました。

金田
「復旧のフェーズだったときから、ようやく復興の話ができるようになっていたのに、9月21日に奥能登豪雨が起きました。先が見え始めていただけに、亡くなった方もいて、ショックが大きかったです。1月からみんなで何とか這い上がって、ようやく水面に顔を出して太陽を見ながら前を向けると思えたときやったんやけどね」

加藤
「大谷地区は、いろいろな状況が重なって、他の地区よりも復興が一歩遅れていました。それでも、仮設住宅がもうすぐできそうだというところまで来ていたんです。僕も、避難所でご飯を作る時間が減って、店の運営に集中していたタイミングでした」

金田
「その日は午後に加藤くんと一緒に何かの取材を受ける予定やったんだよね。でも、雨がひどくてどうしようもなくなって」

加藤
「そう、雨がすごくて、朝から倒木があって道も塞がれていました。その日は店も休業しようと決めて、みんなに連絡しました」

西海
「グループラインで連絡をもらいましたね。でも、そのときは、こんなにひどいことになるとは思っていませんでした」

加藤
「そうだよね。僕もそのときは、その日に死にかけるなんて思っていなかった」

金田
「なんといっても、外浦・大谷の被害のひどさ。他の地区と比べても特に酷かった。雨が止んでからは、飯田の方では普通に日常を取り戻す人も出てきました。大谷は、川も道路もひどい状況のままだったけれど」

西海
「豪雨で被害の度合いが本当に地域ごとに異なっていて、グラデーションがより濃くなってしまったというか。珠洲にいても、加藤さんに会ったとき、何て声をかけていいかわからなかった」

加藤
「そうだね。豪雨が止んで2、3日後、峠を越えて内浦側に行ったとき、スーパーやコンビニが営業していて、日常が戻っているのを見て驚きました。でも、大谷だけは状況が違っていました。それでも避難所で頑張ろうと、震災後の経験が生かされていた気がします。僕は大谷の避難所しか知らないけど、大谷は雰囲気がすごく良かったんです。もともと住民同士の仲が良いのもあって、ピリピリした様子がなく、それぞれが役割を果たしてうまく回っていました」

関口
「大谷は避難所のトイレもすごく綺麗でしたよね」

加藤
「役割分担を決めたわけではないけど、それぞれが自分で考えて行動していたから、こんな状況でも心の健康を保てたんだと思います。もうすぐ大谷避難所は閉鎖になるけど、みんな寂しそうにしていて、『ここで年越せると思ったのに』という声もありました。それはさすがにと思うけど、そう思えるくらい居心地の良い場所になったのは良かったと思いますね」

金田
「もちろんまだ復興が進んでいないところもあるけど、正月には仮設住宅に入れる流れができつつある。日常にはまだ遠いけれど、それに近いところまで戻ってきたのは、なんとか良かったです」

豪雨直後の大谷の様子。加藤は豪雨の際に九死に一生を得ました。そのときの出来事をInstagramで日記としてまとめ、公開しています。

度重なる苦難を乗り越え、12月を迎えた珠洲。
日々変わる景色に、ときには胸を痛め、ときには希望を見いだしながら、冬を迎えました。

改めて、この1年を振り返り、そして来年のことを考えてみます。

加藤
「僕は最近メディアに出ることも増えたんですが、そのたびに潮騒レストランの「店長」ではなく「シェフ」として紹介されるのが、正直ちょっと違和感があって(笑)。元々僕はバーテンダーで、その後居酒屋で働いてきたんで、いわゆる料理人としての道を歩んできたわけじゃないんですよね。正直、これまで大したことは何もしてこなかったんです。

でも、避難所でご飯を作るようになって、みんなから『今日のはイマイチだな』とか『今日は美味しいね』なんて色々言われる中で、この時間が俺にとっての修行期間なんだなって。珠洲の人たちは、旬の土地のものを食べて育ってるから、舌が肥えてて味に厳しいんですよね。

年が明けて、春頃にまた店を再開できるようになったら、能登半島の食材を活かした料理を出せるようなお店にしていきたいです。最近は地元のおばあちゃんにも『私の味を覚えなさい』って、食べさせてもらいながら修行しています。今年は自分にとって修行の年だったと思うので、来年はその成果をちゃんと形にしていきたいですね」

西海
「私も、加藤さんみたいに修行期間みたいな1年だったなと思います。さっきも言いましたけど、最初の頃は、芸術祭に関わるプロジェクトの活動していることを口に出せなかったり、アートや芸術祭の文脈で何かをするのが難しいと感じていました。でも、結局は人と人の関わりがすべてだなって思うようになったんです。

最初は、自分に何ができるのかを模索していて、いろいろ試してみたけど、『これじゃないな』って思うことも多くて、本当に探り探りの1年でした。でも、最近になって少しずつ、自分に何ができるのかが見えてきた気がします。そうすると、不思議と周りのことも見えてくるんですよね。あの人はこんなことを手伝ってくれそうだな、とか、同じようなことをしている人がいるかも、とか。

珠洲を記録するアーカイブ活動も、みんながそれぞれのやり方で進めていて、だんだんそういうメンバーが一緒に集まる機会も増えてきたんです。それがすごく嬉しい。今年1年は手応えがなくて、『何もできてないな』って落ち込むこともありましたけど、振り返ると関係性づくりの1年だったんだと思います。去年は全然関わりがなかった人ともつながることができて、その人たちとの下地を作る時間だったんだなって。

アーカイブ活動も、少しずつ形が見えてきたので、来年はその成果を拠点づくりなどで具体的な形にしていけたらいいなって思っています。隣にいる人同士で手を取り合いながら、そこから新しい流れや、大きな動きが生まれる気配を感じています」

関口
「拠点も少しずつ形が見えてきましたよね。珠洲に長期的に関わろうという人たちともつながることができて、彼らが集まり、一緒にものをつくれる場所になるといいなと思います。この事務所でテントを張って生活していた頃から思うと、隔世の感がありますね。だんだん珠洲も、人を迎えられる環境になってきたんだと思います」

西海
「もちろん、新しいつながりも大事だけど、今あるつながりを育てていきたいという気持ちもある。一方で、活動を大きくしていく中で、人手が足りるのかという不安もあるし、広報活動に関しても、自分たちが生活の立て直しで忙しくなると、更新が止まってしまうことが課題だと感じてます」

関口
「でも、僕はそれでいいと思っています。だって、活動は長期的なものだし、続けるためには、それぞれが無理なく、関われる範囲で関わることが大切だと思うので」

関口
「震災後のプロセスを考えると、一番最初は『レスキュー』、次に『ケア』、その次に『生業』、そしてその先に『表現』とかの段階になるんじゃないかなと思います。今の珠洲は、その『ケア』と『生業』との間を行き来しているような感じだと思います。『ケア』や『生業』のことがひと段落すれば、アートの出番がくるかもしれないと思っています。

こないだ大谷地区の集まりに参加させてもらいましたけど、震災前の珠洲を知っている人間が、話を聞くことでケアにつながる部分があるんだと感じました。珠洲の風景は地震や豪雨で大きく変わってしまったけど、震災前の珠洲を知っている人と話すと、ほっとして話しやすくなることもあるんですね。記憶と向き合えるというか。そういう安心感の中で、『こんなこともできるかもしれないね』って、新しいアイデアが生まれることもあると思うんですね。

日々のことで精一杯であまり先のことは考えられないのですが、『交換』する感覚を大事にしたいなと思います。地元の人たちが必要とするものと、自分たちがつくれるもの。その交換のやり取りが豊かになっていけば、復興は進んでいくんじゃないかなと思っています。ちょっと抽象的な話かもしれないですけど」

西海
「金田さんはヤッサープロジェクトに期待していることってありますか?」

金田
「元々サポートスズを立ち上げたのも、行政だけではうまくいかないことを手助けしてほしいという思いからでした。震災以降の活動も、まさにその辺りを期待してます。ただ、今のサポートスズにはお金がない。事業を委託されているという性質上、できる活動には限界がある。だから、ヤッサープロジェクトがその部分を担保して、引っ張ってくれるといいなと思っています。

11月に東京で行われた猿楽祭でも報告会があって、東京でも珠洲に関心を寄せている人がいることが分かりました。芸術祭をもう一度開催しようとは言えんけど、芸術祭に縁のある人々の活動をリードしてほしいかな。

これからは、防災に関連した学習ツアーを立ち上げていきたいという話も上がっているし、その中核をサポートスズが担っていけるだろうと期待してます。

次の芸術祭がいつになるかは分からないけど、いつかの芸術祭につながっていくような気がするし、今行っている活動はすべて次のステップにつながっていくと思います。色々なことが積み上がっていく中で、ヤッサープロジェクトがスタートの軸を担ってほしいです」

震災の混乱の最中、手探りの状態から始まったヤッサープロジェクト。被災したメンバーもいる中で、それぞれが迷い、考え、実行してきました。

1年の活動を通して気づいたのは、これまで築いてきた人とのつながりの大切さです。

来年も、これからも、芸術祭から生まれた縁を復興につなげていきます。


写真で振り返る、ヤッサープロジェクトの1年

「ちゃべちゃべサロン」では、ワークショップを通じて、公の場で挙げにくい声を拾い上げ、まとめて市に届けました。

7月はひびのこづえさんによる、珠洲応援ダンスプロジェクトが開催。馬緤町では、8月に芸術祭参加アーティストと地元の人たちと一緒に、サザエキリコやさざえみこしをつくりました。

「さいはての朗読劇」参加メンバーによって立ち上げられた復興応援プロジェクト「あいの風Project」は、チャリティーグッズを販売し、支援につなげてくださいました。

8月に再開した潮騒レストラン。地元の人たちや、復興事業者の方たちの憩いの場となりました。

奥能登豪雨の直後は、泥かきや稲刈りなど、ボランティア活動に参加しました。

11月に東京・代官山で開催された「猿楽祭」に参加し、珠洲の特産品の販売や奥能登珠洲復興支援アート販売会も行いました。

記録日:2024年12月12日
記録者:テキスト・戸村華恵(ヤッサープロジェクトスタッフ)
    写真・沼田かおり(ヤッサープロジェクトスタッフ)
参加者:金田直之・関口正洋・加藤元基・西海一紗
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