奥能登国際芸術祭を通じて生まれた縁を復興活動につなげる「奥能登珠洲ヤッサープロジェクト」。北川フラムを発起人として、震災直後の1月に立ち上げられ、今日まで活動を続けています。
ヤッサープロジェクトは、芸術祭の運営を支えた「サポートスズ」、芸術祭の企画制作に携わった「アートフロントギャラリー」が事務局となり、芸術祭のアーティスト、サポーター、そして珠洲ファンによる支援の受け皿としても活動を広げています。主な活動は、作品の修繕、復興ツアーの受け入れ、潮騒レストランやスズ・シアター・ミュージアムの再開、そして震災に関するアーカイブの制作。
プロジェクトに関わる4人のメンバーも、それぞれの立場から珠洲の復興に尽力しています。サポートスズの理事を務める珠洲市副市長・金田直之。アートフロントギャラリーの芸術祭担当者であり、現在はサポートスズの理事としてプロジェクトをまとめる関口正洋。2023年に移住し、潮騒レストランの店長を務める加藤元基。そして、2022年に珠洲に移住し、記録係としてヤッサープロジェクトの広報を担う西海一紗。
それぞれの場所で震災を経験し、自分たちにできることを模索しながら歩みを進めてきた4人。2024年は、彼らにとってどんな1年だったのでしょうか。
4人の視点を通じて、この1年の活動を振り返ります。
1月の震災直後に発足した「ヤッサープロジェクト」。
震災の混乱の中、いつ、どのようにしてプロジェクトは立ち上がったのでしょうか?
関口
「芸術祭を通してつながったアーティスト、関係者などから支援金などの協力をしたいという声を受けて、その受け皿として『ヤッサープロジェクト』を立ち上げました。名前は、珠洲に馴染みのある言葉がいい、という話になり、珠洲のお祭りの掛け声でもあり、芸術祭の合い言葉としても使われていた『ヤッサー』という言葉を使いました。1月いっぱいまでの間にプロジェクトを立ち上げる準備を進めてました。震災直後の不安定な状況の中で、手探りでしたね」
西海
「震災の日、関口さんはどこにいたんですか?」
関口
「僕はその日、名古屋で震災のニュースを知りました。すぐに東京に戻って、市役所の方やスタッフと連絡をとり、情報を集めました。まずは、芸術祭スタッフ、お世話になった地元の方々の安否確認ですね。
震災後、珠洲に入ることができたのは1月13日。まだ『今は行かない方がいい』という声もありましたけど、珠洲の震災は国内だけでなく海外でも大きく報じられていて、海外のアーティストからも『何か支援できることはないか』とたくさんの問い合わせが寄せられていたんですよね。それにも応えなきゃというのと、いろいろな情報が飛び交っているけど実際はどうなのか自分たちの目で状況を確かめる必要があると思って、金沢で車を借りて珠洲へ向かいました」
加藤
「関口さんは中越地震を経験されたことがあったんですよね?」
関口
「新潟で行われた大地の芸術祭に関わっていたときに、2004年の中越地震を現地で経験しました。そのときと大きく異なったのは、今回は地域全体が被害を受けたため、ボランティアも含めて震災後すぐに現地に入れなかった点です。道路の問題もあったし、人命救助が優先されていましたからね」
金田
「あの揺れを感じた瞬間、いつもの世界が一変した感覚がありましたね。まるで、1月1日の15時までの世界からまったく別の場所に放り込まれたような。僕はそのとき家にはいなくて、地元のお宮さんの当番をしていました。家は、津波で2〜3メートルの水が入って全壊。家族で使っていた車3台もすべてダメになりました。それから市役所に駆けつけて、約2週間は風呂にも入れない日々が続き、芸術祭のことなんて全く頭にありませんでしたね。ただ、市内で右往左往している人たちをどうするか、それだけ考えて動いていました」
関口
「1月の市役所は、内閣府や経産省、自衛隊の人たちとか、見たこともない人たちがたくさんいて、物々しい雰囲気でした。金田さんたちも取り込み中だろうと思って、廊下のベンチに座ってしばらく様子を見ていたら、市長と金田さんが通りかかって声をかけてくれました」
金田
「毎日、自衛隊や消防、警察との会議で50人以上がひしめき合う中、初めて関口くんと珠洲で会ったとき、一番嬉しかったのはタバコをくれたこと。震災直後で、気持ちだけで体を動かしているような状況だったから、一服できて少しほっとしました。追い込まれるほど、体力よりも気持ちが大事になるもので、そんなとき嗜好品がどれだけありがたいか、身に染みましたね。少しだけ震災前の元の世界に思いを馳せることができた気がしました」
関口
「中越地震で被災した経験があったので、現地の人たちの気持ちが少し想像できました。支援者の都合で、どうですか?とか、何をしたらいいですか?なんて一方的に聞くのはやめたいなと。今は出番がなくても、振り返ったときに後ろにいるくらいの距離感でついていくのがいいんじゃないかと思って。昼休みに行くとか、何かのついでに顔をのぞかせるとか、そんなふうにしていると、ふとした瞬間に『これをしてほしい』という言葉が出てくる。そういうのに応えていく感じです」
金田
「とは言え、ほっとできるのは本当に一瞬で、すぐまた現実に引き戻される。目の前のことをこなすので精一杯で、1、2日先くらいしか見通せませんでした。この先1週間とか1カ月先のことなんて、考えられる状況じゃなかったですね。1月中旬頃、熱を出して1日だけ病院にお世話になりましたけど、そのとき病院のベッドが高級ホテルのベッドのように感じました。その頃市役所では、みんな寝袋を敷いてなんとか眠っている状態だったから。ほんと、すごいことになってしまった。何よりも、目の前のことをどう回していくか、とにかくそれだけでした」
西海
「今も大変だとは思うんですけど、震災から一息つけたタイミングはいつだったんですか?」
金田
「4月の中旬に仮設住宅に入れた、そのあたりかな」
西海
「それまではどこにいたんですか?」
金田
「市役所の副市長室。大谷の人たちなんかは最近入れたばかりの状態だけど、宝立の辺りは4月頃に入れて。それがひと段落といえばひと段落。やっぱ家って大事やなと思った。仕事と休みを繰り返して人生が進んでいくけど、自分の家がなくなると気持ちや身体をリセットできなくて『明日からも頑張ろう』となかなかならない。副市長室で目が覚めても『そうや、家ないんや』って思って。なかなか寝付けませんでした」
加藤
「僕は名古屋の実家に帰っていて、テレビで震災のニュースを見ました。知り合いに連絡するのもためらわれて、どうしようかなって思いながら、とりあえず金沢まで出てみました。それから、潮騒レストランの監修をしている『ぶどうの木』の米田料理長と合流して、しばらく七尾で炊き出しを手伝ってました。1月8日くらいになって、珠洲に行く知り合いの車に乗せてもらって、珠洲市役所に行きました。芸術祭で関わった人たちが『よー、戻ってきてくれた』って声をかけてくれたけど、みんな青白い顔をしてました」
西海
「それからどうしたんですか?」
加藤
「名古屋に帰省している間に、自分の車は飯田の旧消防署の横に停めていたんですが、津波に飲まれてしまいました。それでもなんとか動く状態だったので、上黒丸にある自宅に一度戻りました。潮騒レストランの様子が気になって、現地に行きたかったのですが、自分の車は二駆で、しかも雪が降っていたので、事故を起こして誰かに迷惑をかけたくないと思い、歩いて大谷まで行くことにしました」
西海
「歩いて行ったんだ。上黒丸から大谷って、結構な距離ありますよね」
加藤
「歩いて10分くらいで後悔しました(笑)。でも、もう引き返せなくて。途中で自衛隊の人が車に乗せてくれて、なんとか辿り着けました。潮騒レストランは無事だったんですけど、避難所はまるで戦争みたいな光景でしたね。物資が来るのかどうかも分からないし、ピリピリした空気もあった。でも、そのとき大谷に行けたおかげで、夏にはレストランを再開することができたし、大谷に居場所をつくれた気がします」
金田
「今や、加藤くんは大谷の町民やもんね。なくてはならない人材」
加藤
「今はどこ歩いてても声かけられるようになりました。珠洲の人って遠慮がちで、人に頼るのが苦手なところがあるんですけど、身内には『これやって』『あれお願い』って頼れるじゃないですか。最近、それが増えてきたので、なんとなく認められてきたのかなと思います。震災直後はそこまで深く考えてなかったけど、珠洲に戻ってきて良かったなと思います。移住者としてできることをやってたら、だんだん居場所ができてきた。しんどいことを一緒にすると信頼が生まれるし、仲良くなれるんですよね。そういう意味では移住者としてプラスの面もあったんじゃないかと思います。大谷も春頃からみんなの気持ちが上向いてきました。ずっと水が出ない状態が続いて大変だったけど、大谷は自分の毛色に合ってたのかな。冬にふっと帰ってこれて良かったです」
それぞれの場所で震災を経験した4人。1月から3月にかけては、混乱の中で過ごしていました。その最中、3月にサポートスズの解散が決まり、メンバーである加藤と西海にもその決定が伝えられます。
先の見えない状況の中、苦渋の決断を下したものの、その後少しずつ立て直しの兆しが見え始めます。
金田
「立て直しの見込みもなかったし、仕事もできない状況でしたから、サポートスズの解散もやむを得ない判断でした。でもその後、関口くんが休眠預金獲得に向けて動いてくれて。ヤッサープロジェクトの中でサポートスズとしてできることがあるかもしれないと考え始めて、徐々に立て直しの目処が立ってきました。それから、戻れるメンバーには戻ってもらおうという話になっていきました」
関口
「最初は、ヤッサープロジェクトを立ち上げても、活動は手探り状態。だから、相談されたことに対しては、できるだけ対応していこうと思ってました。あるとき、市長と金田さんが『サポートスズの子たちが心配だ』とポロっと話してたんですよね。サポートスズのメンバーは移住者がほとんどなので、仕事がなければ珠洲を出て行かざるを得ない。そこで、新潟の大地の芸術祭で受け入れをしてもらい、一定期間の収入をカバーしたんですよね。その間に休眠預金を獲得することができて、サポートスズの立て直しに向けて動くことができた。休眠預金のことを教えてくれたのは、2023年の芸術祭を見に来ていた経済同友会のつながりなんだけど、これも芸術祭の縁ですね」
金田
「休眠預金の獲得が決まってから、関口くんにはサポートスズの理事になってもらい、正式に支えてもらう体制に変えていきましたね」
西海
「私は震災当日、珠洲で被災して、1月10日までは珠洲にいましたが、その後3月頃まで実家の北海道に戻っていました。北海道では普通の生活をしていましたが、ニュースやSNSで珠洲の様子を見るたび、避難所で生活している人たちの姿が気になって。離れているのも辛かったですね。4月になってようやく『戻ろう』と思い立ち、珠洲に帰りました。そのとき、ひどい光景を覚悟していたのに、桜や花がたくさん咲いていて。それを見たら『珠洲で何か自分にできることを探そう』と思えました。ヤッサープロジェクトに声をかけてもらったのは、その頃でしたね」
関口
「西海さんが戻ってくることは、大きな出来事でした。報道では伝わってこない珠洲をどう伝えていけるか思案していたので、西海さんが現地にいれば、映像や写真で伝えていけるなと思いました」
西海
「メディアで見る珠洲と、自分の目で見る珠洲のギャップを強く感じた瞬間が2度ありました。1月10日に珠洲を出て金沢のホテルに泊まったとき、テレビのニュースでドローン映像を見て、自分がいた場所だと思えないくらいの衝撃を受けました。それから3ヶ月間は、北海道でニュースを見ながら、『もう珠洲に帰れないかもしれない』と思う日々でした。
でも実際に戻ってみると、ここで暮らし続けている顔馴染みの人たちがいて、お気に入りの桜の木もそのままで、通勤途中ですれ違っていたじいちゃんが同じ格好でチャリを漕いでいるのを見て。1月は変わってしまった景色しか目に入らなかったけど、『まだ好きな風景がたくさんある』と思えました。そして、それを伝えなければと感じましたね。震災後、珠洲が『被災地』としてのフィルターを通して見られるようになり、喪失感を抱えている人が多いように感じます。だからこそ、ヤッサープロジェクトに参加して、何かできないかなと思いました」
加藤
「でも、避難所では、芸術祭の話はできない雰囲気だったんだよね」
西海
「私も5月、6月頃は、芸術祭に関係のあるプロジェクトに関わっているとは誰にも言えませんでしたし、説明するのも難しかった」
加藤
「芸術祭どころじゃない、っていう空気だったよね」
西海
「でも、関わってくれた作家さんとか、サポーターさんとか、芸術祭きっかけで関わってくれた人たちが、すごい支援に入ってくれたんですよね。地元の人たちが地震前の珠洲を知っている人たちと会うと、『会いに来てくれてありがとう』と、ほっとした表情を見せてくれる場面がたくさんありました。これまでのつながりが生きてるなというのを実感して、大事にしていかなきゃいけない縁なんだなというのを改めて感じました。それから、『ちゃべちゃべサロン』が始まり、8月には潮騒レストランが再オープンして、アーティストの支援活動も活発になっていって。その頃から少しずつ『ヤッサープロジェクトをやっている』と、周りに言えるようになってきました」
金田
「これまでのネットワークが、こんなにも広がっていたんだということを改めて感じましたね。芸術祭では、常盤さんや仲間さんを中心に『あいの風Project』が支援してくれたり、たくさんの方が支援金や義援金を送ってくださったり。そのつながりをどう途切れさせず、さらに強くしていくかが、私たちヤッサープロジェクトの役割だと感じている。この1年、特にその思いが強まりました」
加藤
「潮騒レストランは春頃から店の片付けを始めて、8月に浄化槽が直ったのをきっかけに再オープンが決まりました。2023年の芸術祭のコンセプトとは違うけど、今求められているものを考えたとき、1,000円くらいで定食を出せたらいいなと思ったんです。そして、8月に再オープンしました。地元の人もたくさん来てくれたし、困ったときは米田料理長が助けてくれるので、とても心強かったです」
新たな気持ちで新年を迎えた直後、突然奪われた日常。 それでも、日々、一人ひとりができることを探しながら、一歩ずつ前に進んできました。
夏が訪れると、地域によっては祭りが再開され、珠洲全体が復興へ向けて、少しずつ前向きな気持ちを取り戻していきます。
しかし、そんなときに発生したのが、9月21日、奥能登豪雨でした。
(後半へ続く)
記録日:2024年12月12日
記録者:テキスト・戸村華恵(ヤッサープロジェクトスタッフ)
写真・沼田かおり(ヤッサープロジェクトスタッフ)
参加者:金田直之・関口正洋・加藤元基・西海一紗